おだやかに、スマートに。
― HSPの生き方模索 ―
ブログ・副業

話し言葉?書き言葉?悩んだ末の「なんでもあり」【ブログ×書き方】

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こんにちは、HSPエッセイストのこはくです。

こはく
こはく
書き手の個性は「出す」ものではない。「出る」ものだ。……知らんけど

書くことのハードルを上げていたのは「文体」

「文章を書くのが好きか?」と聞かれたら、答えに窮する。

自分の頭の中を言語化して、文字にするのは好きなのに、ブログとして公開するとなると、途端にハードルが高くなる。

結果、このブログは3年近く放置されてきた。

書くことが好きなのに書くのが億劫…
その理由を考えたとき、1つの原因が頭に浮かんだ。それは、「文体」が定まっていないことだ。

文体とは、文語体/口語体、話し言葉/書き言葉、敬体(です・ます調)/常体(だ・である調)といった文章の様式や、作者特有の文章表現における特色のこと。わかりやすく言えば、”書き手の個性”みたいなものかな。

日記など、絶対に人に見せないと決めた文章なら、文体など気にしない。逆に、レポートや仕事のメールなど、改まった文章であれば、丁寧に書けばいい。

でも、ブログだとどうか。
”正しい”文章であればあるほど、まるで教科書を読んでいるような、お堅い感じになる。書きやすくはあるけど、書き手のキャラクターは死んでしまう。

ブログを立ち上げた当初は、そういうある種テキストのような、HSPがおだやかに生きていくためのノウハウを伝える場所にしたかった。

けれど、それだとどうも続かなくて、今は「現状、おだやかに生きれていないわたしが、試行錯誤する様子」を綴る形にした。情報の正しさや有用性よりも、書き手に対する親近感やユーモアを感じてほしいと思うようになったのだ。

地味な葛藤 ―正しさか、読みやすさか―

高校受験と大学受験のとき、試験科目に「小論文」があった。(大学はなんと試験時間3時間)

文章の内容はさることながら、文体の混用や、ら抜き言葉、表記の揺れも減点の対象であった(はず)。

当時、必死に練習したのもあって、今でも書いたり読んだりするときは、そういうのを結構気にしてしまう。

「してる」「している」
「けど」「けれど」「けれども」
「わたし」「私」、どっちが読みやすい?

句読点の位置、改行の位置はどこがいい?
数字は全角?半角?漢字?数字?

「~たり」単体で使ったら変かな?
“〇〇”を強調に使ってもいい?「〇〇」との使い分けは?

正解がわからなかったり(あるいはそもそも定義されていなかったり)、正しくない表記という自覚がありながらも、読みやすさを優先して言葉を選ぶ。

国語の先生に採点されたら、たくさん「×」が付くような文章を、こうして公開するのは、思った以上に抵抗があったみたいだ。

ハイブリッドという名の「なんでもあり」

そして悩んだ末、たどり着いたのが、“話し言葉と書き言葉のハイブリッド”。要は「なんでもあり」ってことです。

書き手が自然体で書けば、読み手も気負いせずに読めるのではないか。

話し言葉と書き言葉が混ざったり、突然「です」って言ったり、母国語である関西弁が漏れ出たりしようとも、それよりも読んだときのリズムや印象を大事にしたいと思ったのです。

言い訳を並べただけのような内容になってしまったけど、ブログが書けない理由って、こういう“些細な引っかかり”の積み重ねなような気がするんよね。

文体とか、書き手のテンションとか、どこまで個人情報を開示するかとか……

最初のうちは試行錯誤しながらで、ブレブレかもしれんけど、段々とじぶんらしい文章になっていけばいいなあ。

あと最後に、自分自身に言い聞かせるとすれば、一字一句読んでくれる人の方が圧倒的に少ないという事実。
速読の技法をあえて身に付けていなくても、情報に溢れかえった現代では、無意識的に読み飛ばしていることが多い。

コピーライティングを勉強していたときも、「見た人全員が一言一句丁寧に読んでくれると思うな」と教えられた。(だからこそインパクトが必要)

だからわたしが「わたし」と書こうが「私」と書こうが、そもそも気づかれないし、気づかれたとしても「あらま」で終わるのである。きっと。

― おわり ―

こはく
こはく
エッセイスト岸本葉子さんの著書。
「良い文章」ってなんとなくで書けるもんではなく、こんなにも論理的に構成されてたんやと衝撃を受けた一冊。おすすめです。